ルールというもの

私は社内で取引のルールの制定などを行なっているので、ルールについて考えさせられることがよくある。

もともと、ルールというものは「物事を潤滑に進める上で、混乱が無いように決め事をしよう」というものである。

そのため、あたりまえだが抜け穴があれば何をやってもよい、というわけではない。

そういう前提があるから、あくまでも当事者の間で「良識」や「常識」があると考えられる範囲はわざわざ明文化してルール化する必要が無いわけだ。

ルールの親分である法律にもこれは当てはまる。法律が多いということは、当事者同士の「良識」や「常識」で解決できる範囲が狭いということを意味する。だから、法律が多いほど、「法が整備されていて先進的」というような単純なものではないと思う。

アメリカの法が整備されているのは、多民族であるために文化の違いなどから、社会として共通した「良識」や「常識」がお互いに通用しないことが多いためだろうと思う。

一方で、法が整備されすぎると、今度は法に触れなければ何をしてもいい、という逆転の発想が生まれてくる。法にはかいくぐれる余地があるから、これらを利用して悪だくらみをはじめる。そうやってまた法が細かくなっていく。法が細かくなるほど、「法が全てである」という誤認が生まれやすくなって、抜け穴を探す人が増える。

法の後ろには、それを作った理由、意図するべきものがあるだろう。「法の精神」ともいえるものだ。裁判官は、ただ単にある行為が法に照らしてどうであるかというだけの判断ではなく、「法の精神」にのっとった行為であるか、というところをもっと意識するべきだ。

良識や常識を超えた範囲で行ったものは、法に照らして考えるのではなく、「法の精神」に照らして考えるように裁判官たちに切にお願いしたい。
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by dubian2.4 | 2005-03-13 00:37 | 上海生活や仕事
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