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愛について考える

 やっと今日の朝会で本棚の設置を認めてもらった。これで、みんなで本を持ち寄ることができる。うれスい。 

 また出張で北京に来てしまった。上海から北京へ向かう飛行機に乗っている2時間は本は読めるし、寝ようと思ったら寝られるし、まさに大切な時間だ。

 北京に来る前に上海で会議があったのだが、なぜか急に鼻血が出てリタイヤ。目の前の先輩がセクシーすぎたのか(注:男、レスリング部出身)。

 移動の時間にいろいろ考えることができるということで、今日は愛について考えてみた。なんという普遍的テーマなのだろう。

 愛ということはつまり、与えることである、とある本に書いてある。それをヒントに思索をめぐらせてみる。私も、人に与えつづけること、そして見返りを気にしないこと、ができるということは、愛の表れであると考えている。そして、愛があるということは心に平安があるということであると思う。心に平安がない人間が、他人に与えることなどできるわけがない。

 心の平安、というのは私の中で人生のひとつのキーだ。心の平安のない人生は、つらく厳しい。そして、心に平安を与えるキーとなるのは愛であると思う。

どんなに誰かを愛してやまないとしても、心に平安をもたらさないなら、それは愛ではない、と私は思う。

 恋人や夫婦なんかは、お互いを好きな気持ちが強すぎて、それが転じてお互いを攻撃してしまうようなことがある。極端な嫉妬やねたみの気持ち、信頼が裏切られたときの悔しい気持ち、などが攻撃を生む。

 しかし、そのような気持ちは、もはや愛とは無関係のものだ。相手を独占したい、相手を自分の都合のよいように動かしたい、自分の思い通りに自分のことを想って欲しい、という欲望に過ぎない。欲望は愛情ではない。自分の都合しか考えていないエゴイズムだ。

 愛から生じる怒りや憎しみは、自分の願望がかなえられないというストレスの発散に過ぎない。だから、それは愛情表現ではない。そして、それは心に平安をもたらさない。

 私は動物が好きなのだが、動物の親子には強い愛情が見られる。ヒナにひたすらエサをやるツバメの親、自分がおなかをすかせているのに子供にまず自分が取った獲物を食べさせるライオンなど、「本能だから」では片付かない愛情を感じる。

 一生を通じて、見返りを気にすることなく誰かに与えつづけることができれば、自分の心は平安だと思う。誰か、とは妻であったり、家族であったり、友人であったりすると思うが、そういう相手がいること事態が、本当に幸せなのだ。

 与えることのできる相手がいる、与えることができるメンタリティにある、というだけで実は大きなものを得ているのだ。心の平安だ。それは人生の基盤にもなる大切なものであり、金銭では買うことができない。

 時間ができると、たまに、こんなことを考えたりしてしまう。ところで、今日の会議で鼻血が出たというのに、またチョコレートを食べてしまった・・・。夜寝ながら鼻血を出さないことを祈る・・。
by dubian2.4 | 2004-10-12 00:05 | 上海生活や仕事
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